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深 田(フカタ・フカダ) |
解説 |
上野国勢多郡、信濃国水内郡、伊勢国河曲郡、筑前国宗像郡に 深田郷あり、その他 丹波、肥後などにこの地名あり。 国土基本地図に25ヶ所あり。 尚、和歌山県那賀郡粉河町のは「フケタ」と読む。 |
1、宗像姓 − − 筑前国宗像郡深田郷より起る。宗像記追考に
「権大宮司 深田治部大輔宗像朝臣千秋、擬大宮司 深田民部少輔宗像朝臣氏栄」とあり。
又、筑前軍記略に深田美作佐久守氏俊あり。後裔二家 宗像神社の社家として連綿たり。
2、伯耆の深田氏 − −伯耆志に「會見郡(西伯郡)車尾村に深田氏あり、相伝う元弘二年三月、
後醍醐帝遷幸の時、この家に駐駕し給えり云々」とあり。
又、戦国時代 尼子十勇士に深田泥之助(荒波錨之助)あり。
3、丹波の深田氏 − − 当国氷上郡の名族にして、丹波志に
「深田氏。子孫 村森村、慶長年中、深田孫兵衛と云う人、柏原領にて蔵納に行き、
米五俵を屋根へ投げ上げたり」とあり。
4、清和源氏多田氏族− −大和国山辺郡の名族にして 郷土記に「多田氏の族に深田守安法院あり」と。
5、尾張の深田氏 − − 尾張藩の儒者 深田円空の男 明峰(正室)は、天文学に通ず。
又、深田慎斎、その長子 厚斎(正純)、次子 九皐(正益)なども儒者として名あり。
6、奥州の深田氏 − − 当国安達郡和田城は、深田美作の抱えなりと云う(相生集)。
又、新編会津風土記、耶麻郡塩川村條に「文内。先祖は深田親信とて、加藤嘉明に仕え、
慶長十九年 大阪の役に戦死せり。時に女子一人あり、又、その妻 懐妊なりしが男子を
産む。後、母子三人 近江国に住す。加藤氏の老臣 守岡主馬、その孤寡なるを憐れみて、
一族の守岡親保と云う者を親信の娘に合わせ、深田を名乗らせ加藤家に仕えしむ。ェ永
四年、この国に来り、姓名を森不栖と云う。同二十年、加藤氏 石見国に移りし時、不栖
ここに留まり、貸殖して世を渡り、茶事を以って楽しみとす。後に、親信の実子 親倫、
近江国よりここに移りしかば、不栖、家産を分け与えり。今の分内美元は、六世の孫なり
と云う」とあり。
又、阿弥陀寺鐘楼に
「ェ延二年 施主 深田文内、栗村左平、栗村数右衛門、栗村弥右衛門」とあり。
7、他
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