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解説 |
遠江守たりし藤原姓の意味、尚 異流もあり。 遠藤の地名は、国土地理院の地名に11ヶ所あり。 |
分派氏族 |
王子 上野 遠江 郡戸 菅藤 進藤 中宮 薩摩 |
遠藤氏の出自については、諸説あるが、後世 藤原南家工藤氏の族とす。
遠藤系図に「朱雀院御時 承平三年正月八日、民部卿 藤原朝臣忠文、平将門を
追討する為に、坂東に下向す云々 」とあり、以下の如し
忠文┬公時−為方(遠藤氏)┬頼恒┬為光−為恒 |
2,丹後の遠藤氏 − − 戦国時代 遠藤左次右衛門あり、丹波郡奥吉原城に拠る。
吉原越前守の家臣なりと。
3,武蔵の遠藤氏 − − 風土記稿葛飾郡内国府間村 山田氏條に「山田氏、もと遠藤
氏なり、天正二年当所に来たり農民となり、世々 名主を勤む。先祖
遠藤清吉は、隣宿 幸手の旧主 一色大輔に仕えし由、酒井雅楽頭
阿部
豊後守などより主人 一色右京への答書を所蔵せり」とあり。
4,備作の遠藤氏− − 妙善寺合戦記に「宇喜多直家、遠藤喜三郎を語らい、ひそかに
作州に入らしめ、三村紀伊守 家龍を鉄砲にて討殺す、云々」と。
備前 美作 両国共にこの氏あり。
津山藩分限帳に「百石 遠藤豊二郎」とあり。
又、英田郡大内谷村の庄屋に遠藤氏あり。
5,讃岐の遠藤氏 − − 遠藤系図に「頼恒−為光(讃岐国総追補使)−為恒」と。
又、壇紙村に遠藤城あり、遠藤喜太郎直光ここに居るとぞ。
6,河野氏流 − − 伊予越智系図に「浮穴御館為世−為時−時孝−為綱(風早大領)
−親孝−盛孝(遠藤・瀧口祖)−親家、弟 盛長(瀧口七郎)」と。
7,豊前の遠藤氏 − − 元亀 天正の頃、田川郡の名族に遠藤房勝あり、
又、宇都宮文書豊前知行御領の衆に「海老野、三千石、遠藤孫六」とあり。
又、「海老名城、或は遠藤源兵衛の居城なりと云う」と。
8,桓武平氏千葉氏流 − − 東常縁(下野守)の裔
常慶、遠藤胤好の子を養いて家を譲る。
それより遠藤と称し、明治に至り東氏に復す。
遠藤系図及びェ政系譜に「常縁(東下野守、美濃国郡上郡山田庄八幡を領す)−元胤
−常慶(東下野守)=盛数(遠藤六郎左衛門尉、実は遠藤新兵衛尉胤好の子)−慶隆(
遠藤左馬助、美濃国郡上郡生まれ、慶長九年 但馬守)=慶利(伊勢守)−常友(備前守)
−常春−常久=胤親(但馬守)−胤将(備前守)−弟
胤忠(下野守)=胤富=胤統(但馬守)
=胤昌−胤城−胤禄(近江三上、一万石)、明治
子爵、東に改姓、
家紋、一亀甲、十曜、月星、三亀甲」とあり。
9,近江の遠藤氏 − − 浅井家の勇士に遠藤喜右衛門あり、坂田郡天神社を氏神とす。
10,尾張の遠藤氏 − − 当国中島郡に吉藤城(吉藤村)あり、遠藤三郎右衛門の居城なりしと云う。
この遠藤氏は織田信雄の臣なり。
妙興寺所蔵 嘉吉三年十月二十六日の古証状に「妙興寺領 阿古江野内同開発
代官職事 遠藤三郎家次」とあり。三郎右衛門の先祖ならん。
11,遠山氏流 − − 甲斐国の八代郡にあり、遠山左衛門尉盛邦の後胤なりと云う。
12,首藤氏流− −幕府にあり、首藤公清 孫 康清の後なりと云う。家紋丸に花澤瀉
13,諏訪の遠藤氏 − − 諏訪志料に「遠藤氏、藤原姓 大織冠の裔、鎌倉時代 遠藤左衛門尉と
云うものあり。これを元祖となす。数十代の後、また左衛門尉と云う人あり。
その孫を遠藤但馬守正則と云う。信玄に属し功ありしが、武田氏滅亡後、
諏訪郡に来り、農に従事す。その男を孫兵衛と云う」とあり。
14,甲斐の遠藤氏 − − 当国巨摩郡大城村に遠藤城あり、国志に「駿州阿部郡へ出づる
間道を守衛せし跡なるべし。遠藤伊勢守の城跡なりと云う。門野、大城と云う
村名も関、砦より起ると見えたり。松平甲斐守領国の時は、この路に番所を
据えたりと云う」とあり。
又,「遠藤左衛門尉、鎌倉に仕う。その子
伊勢守と共に日蓮に帰依す。建治二年
七月八日卒す。後裔、元和の頃、勘解左衛門宗重あり」と。
15,越後の遠藤氏− −当国蒲原郡五箇浜の名家にして佐渡妙宣寺の阿佛坊日得の遠裔なりと云う。
16,石川の遠藤氏 − − 磐城国石川郡小倉館は、小塩江村大字小倉にあり、
遠藤内蔵助の館跡なりと。
又、細牙城は、塩田字細久保にあり、遠藤右近大夫真壁将監 居城した
るも、天正十七年十月、伊達政宗の為に落城すと云う。
17,田村の遠藤氏 − − 岩代国田村郡手代館(高瀬村手代木)は、田村氏の臣
遠藤遠江守の
居館なりと。
江戸時代の田村清顕家中記に遠藤遠江守(手代木)なる者あり。
18,安達の遠藤氏 − − 大内備前の家老に遠藤因幡、遠藤将監あり、その裔、弓矢の細工を
業とす。糠沢村の矢師、弓師、この裔也(積達館基考)と。
19,大沼の遠藤氏− −会津大沼郡小川窪村の八幡宮は文明十九年三月、遠藤四郎左衛門次義と
云う者の修造なりと。
又,穂谷沢村の源慶寺の位牌に「元和九年九月、堀内遠藤土佐守入道」と彫付あり。
この村の肝煎り 遠藤善蔵と云う者の先祖なりと云う(新編風土記)。
20,伊達の遠藤氏− −伊達藩宿老 遠藤氏に付いては、世臣家譜に「その先を知らず、
役行者流金伝坊(伊達郡八丁目西、水原西光寺住職)の子
遠藤山城守
基信を以って祖となす。基信 幼より大志あり、四方を周流す。性山公(
輝宗)の時、遂に米沢に来たり、公に仕えんと欲す。基信
連歌を好む、
故を以って数々見ゆるを得。公 基信を微賤の中に挙げ、任ずるに大事
を以ってす。天正四年、基信、奉行となり、これより宿老に列す。天正
十三年十月、性山公 薨去、基信 殉死す。時に年
五十四」と。
又、正宗家中記に文七郎宗信あり、その裔 世々宿老として、栗原郡
金田村川口に於いて二千石を領す。
幕末、允信あり、勤王の大義を唱え、大いに成す所あらんとせしに、
反対者に阻まれて、幽居を命ぜらる。明治四十一年 従四位を贈らる。
21,松山の遠藤氏 − − 陸前国志田郡松山城に拠りし遠藤氏にして、伊達政宗家中
記に「遠藤出羽守貞憲(松山城主)」と載せ、
又、封内記に「松山郷、古壘、相 伝う 公族
遠藤出羽高康の居る所」と。
この遠藤氏の系図に付いては、世臣家譜に「遠藤加賀守盛時、鎌倉管領
基氏に仕う。子 右馬助盛継、応永八年、奥州志田、玉造、加美、三郡
の奉行人となり、志田郡松山城に居住す。その弟を因幡守盛房と云う、
羽州南方奉行人となり、本州 長井庄 宮内郷に居住し、その裔を宮内氏
と称す。盛継の子 出羽守盛定、永享十年 関東大乱の時、管領持氏に属
し、敗走して奥州に来たり、始めて天海公(持宗)の麾下に属す。盛定の
子 因幡守盛行、その子 行定、天文中、直山公(種宗)に仕う。行定の子
左衛門尉光定、光定の子 出羽守定親(一名高宗)、世々松山城に居住し、
保山公(晴宗)に仕う。定親の子
出羽守高康、貞山公の時、松山の采邑
を収めて桃生郡相野谷に移る」とあり。
22,宮内の遠藤氏− − 上記と同族にして、羽前置賜郡宮内に拠る。伊達世臣家譜に
「遠藤因幡守盛房は、羽州置賜郡長井庄 宮内村に住す。盛房 羽州南方
奉行人たり、盛房の子 肥後守盛兼、永享十年、関東大乱の時、鎌倉管
領 足利持氏に属す。持氏 敗戦後、天海公(持宗)に属す。この時 采地
六百余町を宮内村に賜う。盛兼の子 盛俊、文明中、成宗公の時、数々
戦功あり、盛俊の子 盛実、成宗・尚宗の両公に歴仕し、執事となる。
延徳二年三月、尚宗公の時、田 六千石を賜い、刈田郡内親山に移住す。
盛実子なく、宮内因幡宗誠の子を養いて嗣となす。これを宗実と称す。
公、奥羽二州諸軍と兵を挑むの時、宗実 先鋒となり数々戦功あり。
晴宗公、賞して刈田郡内十邑を賜う。宗実の子 宗忠、天文二十一年
正月、晴宗公の時、一族の叛に列し、この時 命を奉じて宮内氏となる」
とあり。
23,大森の遠藤氏 − − 陸前国亘理郡の大森城にありし遠藤氏にして、遠藤隠岐に
至り、伊達実元に破らる。
24,米沢の遠藤氏 − − 米沢鹿子に「上長井糟之目村 山王権現は、康暦二年、
遠藤大和守勝平の建立なり」とあり。
25,他
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