江   見 

解説

安房、美作、肥前などにこの地名あり。 

分派氏族

 

1,美作菅家党 −美作国英多郡江見村(閻武郷)より起こる。

       美作菅家党の一にして、有元系図に「三穂太郎満佐の子 資豊に註して、

       江見長門守、領す江見庄」とあり。

       又、太平記巻七に「美作国には菅家の一族、江見、芳賀、渋谷、南三郷」

       とあり。

       又、東作志江見庄土居村福の城條に「城主 江見帯刀、帯刀は、元亀

       年中の人、宇喜田秀家に仕う。その祖は、菅原道真公の三男 庶幾、

       越中守に任ず、延喜十一年、勅命を受けて、南国に働き、軍功を現わし、

       同年四月十二日伊勢国に赴き、和田教祐を討つ。数度の戦功によって

       叙四位上に叙し、越中守に任ぜらる。承平七年三月卒、四十二歳云々。

       その子孫 江見次郎盛方、作州に住す。(家紋 梅鉢、海老、二引両)。

       保元二年生まる。平家の侍大将として、天盃を賜う時、伊勢海老を下さ

       る。次郎 鎧直垂の袖に受けて頂戴したるその姿勇ましく見えければ、

       叡慮により家紋に賜う。平家に従い西海に戦死す。年二十九歳。

       延元元年、将軍(尊氏)筑紫没落の時、菅家 江見信盛の一族、奈木の

       山菩提寺にて馳走し奉る、この時、二引両の御紋を下さる。以上は、

       元禄二年、津山 森家の臣 江見貞右衛門(武頭役 二百五十石)より

       江見圓宗、同 源左衛門へ送る直書の写しなり」と。

2,赤松氏流 美作国英多郡江見庄 鯰村鳥坂山城主にして、家系によれば

       赤松氏の庶流と云う。幕臣江見氏は 赤松範資の三男 宇野為則の後胤と

       称す。ェ政系譜に「家紋、海老、三巴」と。

       又、武家系図に「江見。村上、本国近江、宇野新大夫時則の男 又次郎景俊、之を称す」と。

3,他 


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