江   戸

解説

武蔵の江戸の他、常陸 陸奥 等に江戸の地名あり。

この氏はこれ等の地名を負う。

埼玉県川口市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,桓武平氏秩父氏流 武蔵の江戸の地より起こる。当時の江戸は江戸橋付近か

       と云う。七党系図に「秩父太郎大夫 重弘の五男 江戸太郎重継より出づ。

       その子を太郎重長(1,180年頃)と云う」と。

    *鎌倉初期の系図は、七党系図、江戸系図、畠山系図、重方の系・畠山系図、

     皆 それぞれ微妙にちがうので、鎌倉後期よりのを載せます。

       江戸重持−泰重−遠江守長門(尊氏及び鎌倉府の基氏に仕う)−高重−康重−重廉

       −重広(駿河守)に至り多摩郡木田見村に移る−又六郎−定重−信重−広重−門重

       −常先(小田原に居住す)と。

       家紋、江戸系図に「三頭左巴、丸の内二引」、畠山江戸系図は「小紋村子、黒筋廿八」。

2,秀郷流藤原姓那珂氏流 常陸国那珂郡江戸村より起こる。異説もあるが新編

       国志に「江戸、那珂郡江戸村より出、那珂五郎通泰の後なり。江戸氏

       初め那珂氏と称す。小野崎氏と同族、藤原秀郷五世の孫 公通の二子

       通直、常陸に徒り、那珂郡河邊郷に居り、河辺大夫と称す。子 通資、

       那珂太郎と称し、始めて那珂氏となる云々」と。

       又、正宗寺本 江戸系図に「那珂彦五郎道政、貞和六年八月、石見国

       三角入道を討ちし功によりて、那珂東郡江戸郷を給い、これより江戸氏

       となると云い、その子 通綱に至り川田城に移る」と。

       又、下って「彦五郎重通(但馬守 慶長三年卒、)その男 三七宣通、

       結城秀康に仕え、氏を改めて水戸と称す、秀康 越前に移封の時、宣通

       従い行き、子孫 今なお存す」と。

3,他


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