土   橋(ツチハシ・ドバシ)

解説

伊賀 伊勢 遠江 羽前 越後 越前などに此の地名あり。

愛知県豊田市、石川県羽咋市、奈良県橿原市、岡山県新見市

愛媛県新居浜市、同 今治市に土橋(ツチハシ)の地名あり。

大阪府高槻市、愛媛県松山市、土橋(ドバシ)の地名あり。

国土基本地図にこれらの地名は45ヶ所あり。

分派氏族

 

1,中原姓 近江国発祥の名族にして、江州中原氏系図に

       成行(愛智大領)−隆行┬治景−景縄(号 土橋北)
                 └宗景(号 土橋北)

2,清和源氏仁木氏族 中興系図に

       「土橋、清和、仁木兵部大輔成長の男 四郎政永これを称す」と。

3,佐々木氏族 遠江国山名郡(今 磐田郡)土橋村より起こる。「隠岐義清の

       後裔 秀通、この地に住して土橋秀綱と改む」と云う。ェ政系譜に

       「八右衛門吉ェ−弥五郎吉時−八右衛門善伸−五郎大夫喜俊。

       家紋、丸に四目結、梶葉打違、丸に剣梅鉢」と。

4,清和源氏武田氏族 新羅三郎義光の苗裔 井出光俊の後と云う。甲斐国八代郡

       九一色衆に土橋大蔵あり。

       又、甲府の名族に土橋氏(伊勢町遠光寺)あり。

5,桓武平氏三浦氏族 − − 大田和系図に「大田和次郎義成−七郎義胤−(土橋)義員」とあり。

6,村上源氏 − −越前国大野郡の土橋より起こると云う、11項参照。

7,日下部氏族− −日下部系図に「氏景−貞景−景高−景鏡(式部大夫、土橋と改名、越前に於いて誅せらる)」とあり。

朝倉氏の族なり。

8,紀姓 石清水祠官族なり。系図に「善法寺祐清−佑俊−快清−真誉( 土橋)」と。

9,橘姓 肥前の土橋氏にして、大村家臣、土橋甲斐守に至り、貴明に従いて

       後藤家に仕う。後藤家事蹟にあり。

       又、大村藩郷村記に「波佐見井石 領主 土橋甲斐守橘公房(貴明陪従)創建」と。

10,河内・和泉の土橋氏 − − 戦国時代、以下の土橋平次、和泉国の貝塚城に拠る。その後、

河内国丹比郡油上村の人、大阪の加賀屋甚兵衛と共に南島新田を開発す。

11,紀伊の土橋氏 − − 続風土記、名草郡粟村旧家 土橋氏條に「村上源氏右大臣 顕房公の苗裔、

山城守房重の男 平次大夫重平の後なり。重平 仁平年間、越前国大野郡土橋の里に移住し、

よりて土橋を氏とす。嘉応元年秋、後白河上皇の熊野御幸に供奉して巧あり。従四位大和守に任じ、

当郡十三ヶ所を賜わり、当村に一城を築き、承安二年、越前国より移住して累世 領主たり。

その子 掃部介時平、建久九年、後鳥羽上皇の熊野山御幸に供奉して、幸物の称を賜わる。

時平 九代の孫 若大夫重春、明徳三年南北合一の後、伊都郡の学問路有岡里に蟄居す。

嫡子 十郎次郎重村、四国の太守 細川勝元に召されて、洛に至る。軍功ありて旧領を賜う。

その子 重勝、細川武蔵守高国に属す。大永七年、桂川戦に長子 十郎重胤と共に戦死す。

二男次郎重隆に子 二人あり、長子を平次守重(後、若大夫と云う)、二男を平之丞重治と云う。

重治は毛利氏に仕う。 守重、天正元年、義昭公 河州若江を去って、日高郡由良城に赴く時、

将軍を山口に迎う。織田氏、本願寺を責める時、顕如上人を帰依して、子 四人を率いて

出陣す(長男平次郎、二男盈重、三男重房、四男守国)、所謂 雑賀の党なり。云々。

大田水責に、平次郎は城中に戦死し、二男三男は落城の後、粟村に帰住し、農民となる。

二男 盈重の後、連綿として相伝え、今、菩大夫と云う。貴志組の大庄屋職を勤む。

四男 平四郎は、浅野家に仕え、後、桑名家に仕う」と。

12,他


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