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長(チョウ) |
解説 |
古くは、多く ナガと云い首長の意味として、称号となり、 原始的なカバネの一つなり。 中世以後 長谷部の人、省略して 単に長氏と云う。長谷部信連 武士として勢力ありしにより、多くはその後裔と称す。 |
分派氏族 |
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1,長谷部姓 − − 物部氏の族なりと。高倉宮以仁王の侍に長谷部信連あり、東鑑に
「長 兵衛尉信連、長 三郎左衛門尉朝連、長 掃部左衛門尉秀連」などあり。 |
2,能登の長氏 − −長 兵衛尉信連の後裔中 最も栄えし流なり。初め信連、頼朝より
能登国大屋の庄を賜う。鳳至郡穴水城條に「長谷部信連 初め 能登郡の
熊木に住し、後 穴水大屋荘 河原田に住すと、長家記にあり。それより
長氏 暦世の間、往々転居はあれども、二十世の綱連まで、三百八 九十
年余り、その穴水に居城せり。然るに天正四年、謙信、能登へ乱入の時、
綱連、穴水を引き払い、七尾城に逃げる。よりて越後の兵、これに代わ
り居たりと云う。同郷菩提所 瑞源寺に歴代の位牌あり」と。
系図は以下の如し。見聞諸家紋に「銭九曜」と。
信連−朝連−政連−有連−盛連−国連−宗連−正連−頼連−左衛門尉(実名不知)┐ |
3,藤原姓− −中興系図に「長、藤原姓、本国能登、家紋 裏銭九文。長谷部兵尉信連の末」とあり。
普通は物部流長谷部と云う也。
4,加賀の長氏 − − 建武二年の頃、長 左衛門尉盛連、江沼郡山中城にこもれりと。
下りて、加賀藩給帳に「三万三千石、内 二千石与力知、紋 銭九曜、
長 大隅守。八百石、長 釆男」等を載せ、又、武鑑に前田家重臣として、
この氏を挙げ、明治に至り男爵を賜う。長 基連、これなり。
金沢市長町に住す。系図は
長 連竜−好連−連頼−元連−尚連(大隅守)−高連(甲斐守)−善連−連起(大隅守)−九郎左衛門−連愛(甲斐守)┐ ┌────────────────────────────────────────┘ └連弘−連恭−成連−克連−基連、三万三千石、明治、男爵を賜う、家紋、銭九曜、その子
昭連。 |
5,室町幕臣 − − 永享以来御番帳に「三番・長伊豆守、長四郎次郎、長弥三郎、
長三郎左衛門尉、長南志見孫太郎、走衆・長下総守」とあり。
その後、常徳院殿様 江州御動座当時在陣衆 着到に「二番衆・長十郎左衛門尉、
三番衆・長次郎左衛門尉、長能登守貞信、長彦四郎、長南志見五郎左衛門、長川尻」などあり。
見聞諸家紋に「銭九曜」と。
6,越後の長氏 − − 三本木城(三本木村)の城主は、長與次なりと。天正中の人なり。
7,上野の長氏− −東鑑 正治二年、二月條に「長掃部左衛門尉秀連、高田武者所盛貞
と対決す。これ上野国菅野庄内堺の相論の事なり云々」と。
8,桓武平氏三浦氏族 − − 三浦義明の五男 義季、長五郎と称す。その後にして、中興系図に
「長。平姓、三浦大輔義明の男 五郎義季 これを称す」とあり。
9,中原氏族 − − 中原有家の後なりと云う。若林三由(実は 水戸家臣 長繁由の子)の四男 信好、
祖父の家号を称して長と云う。
ェ政系譜に「彦四郎信好−信就−半四郎貫忠−彦四郎信政、家紋、裏銭九曜、井筒」と。
10,武藤氏族 − − ェ政系譜に「次郎九郎義連−同 義孝−同 義虎−義陳−義直、家紋 銭八、なずな(ペンペン草)」
11,但馬の長氏 − − 第1項、長谷部信連の後にして、当国の大族なり。鎌倉時代、所領を当国に賜わる。
太田文に「出石郡安美郷七十六町七反六十歩、地頭大門(或いは大江、或いは大内)氏、
出石三郎信政の嫡女、長右衛門四郎長連の妻」とあり。
又、康正の段銭引付に「三貫文、長 伊豆守殿、但馬、伯耆、段銭」とあり。
又、応仁記、但州合戦條に「応仁二年三月二十日、長九郎左衛門尉 云々」とあり。
山名時代には その幕下となり、美含郡の林甫城に拠る。
天文九年、山名祐豊の時、長越前守信行、塩谷左衛門(二方郡朽谷城主)の讒言により殺される。
その二子及び家臣など皆死す。遺腹の子 弥次郎(後、越前守)、独り逃れて出雲に行き、長じて、
永禄十一年帰国、父の仇、左衛門の子 周防守を討ち、林甫城を奪うと云う。
12,他
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