解説 |
伊勢 尾張 上総 播磨などに此の地名あり。滋賀県長浜市、宮崎県宮崎市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,村上源氏久我氏族
− − 雲上家の称号にして、久我流諸家の太祖、村上天皇の皇子
具平親王、千種殿と号し給う。尊卑分脈に
「久我通光 (太政大臣)曾孫六条中納言有忠−忠顕(号 千草、後醍醐天皇に供奉)−顕経−雅光 (中将、権中納言)−光清(権大、具定に改む、文正元年薨ず)」と。 |
その後一時絶え、再興す。知譜拙記に
「久我晴通の二男
具堯(木工頭)の子 有能(権大納言)を祖とす。
その子 有維−有敬−有補−有政−有條−有功−有文−有任−有冬−有梁、明治 子爵、家紋 笹竜胆」と。 |
2,伊勢の千種氏
− − 三重郡千草村より起こりしにて、千種忠顕の後と称す。伊勢名勝志に「建武元年、千種忠顕、本郡二十四郷を領し、目代
伊藤吉治をして管せしむ。二子
顕経、正平二十四年九月、北畠顕康の命により、本郡に数城を築き自ら禅林城に居り、これを総括す。永徳元年、
忠顕の長子
通治の子 隆通、本村に城を築き、ここに居る。忠治(一説に忠房)の時に至りて、北勢諸城皆これに属す。弘治年間、近江佐々木
義賢、北勢を取らんとし、その臣
小倉三河守をして、まず本城を攻めしが、はたさずして、後
和睦す。天正十二年五月、忠治の子 忠基、織田信雄の為に美濃
加賀の井城を守り、秀吉の兵と戦い戦死し、本城も落ちる。秀吉、千種氏の領地を生駒雅楽頭に給す。十三年春、信雄
北勢を領するに及び、忠治に本村を与え、居住せしむ。十八年、秀吉、
忠治の養子
顕理を音羽村に移す。後 大阪の役 戦死す」と。3,近江の千種氏−
− 草野荘司定康の裔なり。定康は、平治の乱に義朝、頼朝父子をかくまう。その功労にて、文治三年、草野荘を給せらる。
4,美濃の千種氏−
− 第2項の裔なり。千種清右衛門、千草六郎左衛門、千草鉄十郎など有り。
5,幕臣の千種氏
− − 家伝に「久我長通の子 千草通相の後なり」と云う。系図は「庄兵衛
(長右衛門)勝正−忠兵衛勝重−同 勝精−勝弘−勝利−勝定、家紋
三頭左巴、十六葉菊」と。6,他
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