千   田(チダ)

解説

伯耆国會見郡に千田郷あり、下総国香取郡、肥後国山鹿郡に千田庄あり、紀伊国有田郡に千田村あり。

 

 

千葉県香取郡多古町、和歌山県有田市、熊本県鹿本郡鹿央町、

宮崎県西都市にこの地名あり。

 

1、桓武平氏千葉氏族 −下総国香取郡の千田庄よりおこる。地理志料 文治二年條に

     「下総国千田庄、殿下の御領と。殿下は関白 近衛基通を云うなり。真間寺 嘉暦三年の

     文書には治田里と書す。その他は皆 千田荘と書す。千葉系図、宗胤の子 胤貞、千田の荘を

     領す。よりて千田を氏とす云々」とあり。

2、奥州の千田氏 上野玉三郎氏曰く「千田氏は、桓武平氏にて、平忠恒(上総介、千葉名 忠常)

     反乱以後、東北に子孫落ち延びしにあらずやと 思考せらる。長元四年四月三日、源頼信

     五万騎を率いて、忠常を攻め、遂に忠常父子を虜とし、六条河原に首刎ねらる。

     千田入道安慶・太郎充尚。その子孫 戦記に見えざれども、この時により奥州方面へ

     逃れしと思わる」と。

     陸前国登米郡の千田氏は、封内記に「高小屋城は、千田甲運の居る所」とあり。

     又、同国気仙郡にも同族ありて、田茂山村 根城に拠る。封内記には

     「田茂山村、根城と号す。葛西家臣 千葉備前盛綱の居る所。初め、隣村 猪川村に住し、

     天文中、移りて この地に住む」とあり。観蹟聞老志には、千田九兵衛と記す。

3、藤原姓佐藤氏族 陸中国和賀郡の名族にして、千田氏の談によるに

     「一村 同姓 四十戸程ありて、本家は、山寺と云う地に存し、その系図に

     『俵藤太秀郷−佐藤庄司(佐藤嗣信、忠信の父)云々』と載せ、その後裔 藤原時長を祖とし、

     現 戸主は二十余代に当る。もとは江刺郡より来りしにて 兄弟三人 兄は江刺郡稲瀬村に居す。     

     毎年旧暦十月十三日には、この村のみならず、江釣子村の同姓など、皆 稲瀬千田氏の家に

     集まる云々」とあり。

4、菊池氏族 肥後国山鹿郡千田庄より起こる。菊池形図に

     「武朝の子 英朝(三男、伊予守、千田)」とあり。千田村 塚崎城に拠る。その子 英次の時、

     落城。応永・文安の頃なり。又、中興系図に

     「千田。藤原、本国 肥後、菊池左市大夫 武朝の男 伊予守英朝これを称す」とあり。

5、豊前の千田氏− −応永戦覧に「千田九郎豊房は、蓑島の人にて 国の守護代 杉弾正弘信に奉仕し

     応永六年、鶴の湊に在陣して、海辺を警護したり」とあり。

6、他


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