赤   松(アカマツ)

解説

播磨国赤穂郡赤松より起る、されど他国発生のものもなきにしも

あらず。

全国 47ヶ所に赤松の地名あり。これらの地名を名乗りしもあらん。

分派氏族

 

1,村上源氏流− −尊卑分脈に

  村上天皇−具平親王−師房−顕房−雅兼−定房−定忠−師季−季方−季則−頼則−則景−家範┐
   ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
   └久範−茂則−
則村(始めて播磨国守護職を拝領す)−則祐(播磨国守護・赤松惣領)

       赤松氏宗家の家紋は 見聞諸家紋に「二引両に三頭右巴」とあり。

2,播磨の赤松氏 −則村以来白旗城に拠る。三男則祐これを継ぎその子 義則、その子

       満祐、その子 教康なり。嘉吉の変、満祐、将軍義教を殺す。よりて封を失い

一族殆どなくなる。応仁の乱、遺臣 政村を奉じ東軍に組して

       故封を回復す。政村、姫路及び置塩に居る。その嗣 義村、家臣 浦上村宗に

殺され、その子 晴政、村宗を誅して故地を復す。その子 義祐、

       その子 則房、秀吉に降る、秀吉これを阿波に移し、一万石を給せしが

       関ヶ原の役、西軍に応じて世継 断絶。

3,美作の赤松氏 赤松守護の頃、一族 上野介持祐 弓削庄を領す。この家は、則祐の

       末子 持則−持祐−祐利−則実 弟・政利なり。

4, 備前の赤松氏 赤松則祐、尊氏に味方して備前の守護となり、満祐に至りこれ

       を失う。応仁の乱、政則これを復す。その世継 義村、浦上氏に誅せられ

       赤松氏衰えて終に浦上家臣 宇喜多氏に奪われる。

5,摂州の赤松氏  − − 当国莵原郡の山路城は 観応年中、赤松範顕居ると云う。

又、赤松信濃判官彦五郎則実 籠ると云う。

康正二年造内裏引付に「赤松治部少輔殿、摂州有馬郡段銭」とあり。

6,伊勢の赤松氏 − − 当国飯高郡に赤松彦次郎教康の墓あり、教康は、伊勢国司 北畠氏に

攻め殺されし人なり。

7,和泉の赤松氏 − −  慶長年間、当国和泉郡に赤松氏ありて、坂本新田を開発すと云う。

8,但馬の赤松氏 − − 但馬考等によれば、天正年間、赤松広通 竹田城主となる。

又、当国養父郡八鹿村内の大森と云う所に赤松左兵衛広秀の墓あり、その碑文に

「竹田城主 赤松左兵衛尉広秀、慶長五年、十月二十八日卒、行年 三十三歳」とあり。

惺窩文集には 諱を広通とあり、広秀は、因幡にて 終りしも 仁政多かりしにより、

ここに墓を作ると云う。

9,常総の赤松氏 永正十三年、赤松民部、多賀谷氏の命にて、和賀十郎を殺す。

       常陸国志補に「木田余城は、天正中、小田氏の臣 赤松凝淵 これに拠る」と。

10,幕臣 − − ェ政系譜に「則村−範資−光範−満弘−教弘−元久−政資−義充−義氏−氏貞(石野を称す)

−氏満(前田利家に属す)−氏置(家康に仕う、二千百五十石)−氏照−氏任−範恭(赤松に復す

三千十石)−範主−恭富−範邑−範善−範亀。家紋、十六葉菊、五七桐、引両、竜胆、三頭左巴、

三本松、竜胆丸の内若松、浮線綾丸七星」と。

11,他


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